まあるい生活

コンポストと暮らす

"99は100じゃない” 映画『ヴィック・ムニーズ / ごみアートの奇跡』

2021年の記事に加筆修正をして2022年10月に再掲載しています。

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昨年から映画のオンライン上映会が増えたような気がします。もちろん画質や音質は映画館には敵わないのですが、家でくつろぎならが気兼ねなく観られるのは大変ラクチンだったりします。お出かけの準備や他のお客様の様子に気を取られないのも、好きなときにトイレに行けるのもストレスフリー。(スマホならトイレに持っていけますし)

 

そんなスボラな私にぴったりなオンライン上映会。なかでも友人が紹介してくれた『cinemo』さんはドキュメンタリー作品がたくさん。観たいけどアマゾンプライムに入ってない!なんていう映画を『cinemo』さんで見つけることができ、2週に渡って映画鑑賞を楽しみました。ということで今回は映画レビューをしてみます!

 

▼観たのはこちら

www.cinemo.info

▼予告編

現代芸術家ヴィック・ムニーズが故郷ブラジルに戻り、世界最大のごみ処理場で働く若者たちの人生をアートで変えていく「芸術で世界を変える」感動のドキュメンタリー。


www.youtube.com


ブラジル出身の現代美術家が、世界での名声を得たのちに、ブラジルに何か還元できるような仕事をしたいと思って目を付けたのが、華やかなサンバ・カーニバルで有名な都市リオデジャネイロにある南米最大のごみ処分場だった。。

 

このヴィック・ムニーズさんは現代美術家ということですが、いわゆる最先端過ぎて素人には理解不能なタイプの作家さんではなく、ブラジルの人気アーティストのジャケットデザインを手掛けたりするポップな作風で知られています。

ブラジル音楽ファンだったら見覚えのあるコレとか、アレとか。

 ▼こちらはチョコレート製


トリバリスタス

トリバリスタス

Amazon

 ▼これは穴あけパンチで抜いたような小さな丸い紙片(古雑誌)を使用

クルー

クルー

Amazon

日本の映画館で一般公開されたのは2013年。ブラジル音楽ファンとして公開情報は知っていたはずなのに、なぜか観た記憶がありません…

 

時は流れ2021年夏。ブラジル音楽への興味はいったん傍に置き自分のライフスタイルの見直しに夢中になっていた私が手にした本は、ベア・ジョンソンの『ゼロ・ウェイスト・ホーム-ごみを出さないシンプルな暮らし』でした。(読書記録を投稿済み)

序文を読み終えて第1章を開く。その冒頭に掲げられていたのが、この『ヴィック・ムニーズ/ごみアートの奇跡』の登場人物である ごみ回収人のセリフでした。

そりゃあ簡単でしょーテレビの前に座って、好きなもの食べて、全部ごみ箱に投げ入れて、道に出して収集トラックに持って行ってもらえばね。でも、そのごみは一体どこに行くって言うの? 

どきっ。多少の分別はしていると言っても、私も ごみ達がどうやって処分されているか正確には知りません。

 

今まで調べてきて何度も出てきたことですが、日本ほど焼却場がたくさんあり、焼却処分率が高い国はありません。しかし多くの国の場合、ごみ処理場=埋め立て処分場となっていることが多いようです。

 

映画の中で、ごみ収集車が処分場に到着し、山積みのごみをドサドサドサっ、と吐き出すシーンがあります。濁流のように流れるごみが地面に落ちきらないうちに四方八方から手が伸びてくる。分別されていないごみからリサイクル可能な素材を選び出し、リサイクル業者に売るのが”カタドール”たちの仕事です。

 

いわゆる3K(くさい、きたない、きけん)な仕事です。常夏とは言わないまでも、日本より気温の高いリオでは、生ごみはあっという間に腐敗臭を発するでしょう。

映画がリアルな体験に及ばないのは 嗅覚・味覚・触覚 に欠けるからですが、今回ほど映像に臭いがついていなくて良かったと思ったことはないです。夕食時に視聴していたのですが、映像だけでもちょっと辛かった。。

 

ヴィックはそんなごみ処理場を視察に行き、こう言います。「ここは遠くからみていると美しくないが、近くによると美しいものがある、それは働いている人々の笑顔だ。」

なんかもうね、そう言えるアナタが素敵です!!と叫びたくなっちゃいました。普通の人は、ごみの山に近寄ろうとすらしないですもの。

 

ごみの中でも明るく誇り高く働く人々に出会って、ヴィックのプロジェクトは進んでいきます。

 

無限にも思えるごみの山と対峙し続けてきた、ごみ処理場のベテラン・カタドール曰く、我々がいるから処分するごみが減る、と。

1つでもなくれなれば、

それは99であって100じゃない。

気高いその顔を見れば、その誇りが彼を支えてきたことは容易にわかります。

娼婦になるよりこっちの方がいい、と言う人、

みんなが飢えないように、私はここで料理を作り続けると言う人。

ごみ処理場での仕事は、日々の生活だけでなく、各人の精神をも支えているようでした。

 

映画の中では、そういった最低限の暮らしで満足しようと自分に言い聞かせてきた人たちがアートに関わるうちにお金のある世界を垣間見ることで、よくない影響を受けてしまうのではないかと懸念する意見も出ていました。

 

これまで誇りを持って働いていた場所に、もう戻りたくない、と思うかもしれない。それは良いことなのか、悪いことなのか。そういう思いをさせることは、良いことなのか、悪いことなのか。

 

とても難しい問題だと思います。知らない方が良かったと思うかもしれない。知らせなければ良かったと思うかもしれない。知ってしまったら、知らなかったことにはできない。

 

ヴィックは、もし自分だったら…と考え、このプロジェクトを継続する決意をします。

ヴィックの作品のモデルとなることを志望したメンバーの境遇が語られますが、皆一様にある不運からこの境遇にたどり着いた、その苦い思い出に苦しめられていました。ごみの分別回収の仕事は、社会の底辺にありながらも世の役に立ち家族を守っているという自負となって彼らを支えています。

 

とはいえ、不潔で危険を伴う現場、最低限の生活環境、十分といえない賃金。それすら強盗に奪われることもある。

 

そんな生活のなか仕事の合間をぬい、カタドール(ごみ回収人)が自らモデルとなり、作品製作にも携わっていきます。

 

徐々に作品ができあがるにつれてモデルたちの表情が変わってきます。自分がモデルとなった作品を見つめる時の誇らしげな顔。惨めになりそうな自分を支えるための強張った仮面を脱ぎ捨てて、固いつぼみが花開いていくような、ほころんだ笑顔。この映画のもっとも美しい部分だと思いました。

 

私が思うに(ここから先は映画の中では述べられていません)、どんな人も、他人が使い捨てたものの後始末をするために生まれてきたのではないのです。

 

カタドールたちの姿を見ながら、日本がアジア諸国に押しつけているプラスチックごみを、原油タンカーから流出する重油を、海に垂れ流している放射能入りの冷却水を想っていました。

 

そして冷暖房の効いた部屋でそのニュースを見ている自分を。

 

処分が追いつかないのなら、使用を、生産を減らさなくてはならないのは明白ではないでしょうか。

 

日々のコンポスト活動や水筒の準備、プラケースに入ったデザートをひとつ諦めることがどれほどの役に立つのだろうかと、つい思ってしまうこともしばしばです。私がプリン 1つ買うのをやめたところで何が変わるだろうか…でも。

 

“99は100じゃない” 

 

小さな一歩でも、立ち止まっているよりはいい。10人が一歩進めば10歩前に進む。100人が一歩進めば100歩前に進む。100匹の猿現象は創り話というけれど、SNS時代の人類にはむしろ有効なおとぎ話であるような気がします。

このブログを読んだ方が一歩を踏み出して下さることを願い、そしてサボりがちな投稿も小さな一歩である、と自分を励まして終わりたいと思います。